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日本史(主に戦国)について、思うことを綴ろうかと。


by wwwnekomimi

家康を震い上がらせた真田幸村

さて、初回は皆大好き☆ユッキーのお話でもしていきたいと思います。

その真田幸村なる人物とは。

戦国好きさんには欠かせない人物なのですが、教科書には載っていないであろう、ちょっとマイナーな人物かもしれない…
少なくとも私が高校生の頃は一切触れずに戦国時代は戦の年号やら内容のあらすじをひたすら覚えるだけだったので深くは知らなかったのですが。

イロイロ調べていくうちにさまざまな逸話と出くわしました。
とても面白い人物です。

皆様ご存知のあの関ヶ原の戦いで、西軍武将・真田昌幸(幸村の父)と幸村が、死罪を免れて追放されました。九度山にて真田昌幸が亡くなった後、幸村の消息については不明な点が多いが、多い話としては来るべき戦いに備えて、その武術に磨きをかけていたという。
いろんなゲームやらなにやらでも熱い男だとか戦馬鹿みたいな感じで登場しているのがこういうところでも少し解る気がします。
ちなみに真田幸村の装束は本当に真っ赤だったみたいですね。
3本くらい資料を見たのですが、すべてそうでした。
あまりに赤いから、私はてっきりイメージカラーなものかと思ってましたが(笑)

さてさて、九度山にいたはずのユッキーが何故大阪城まで攻め込めたか、
主に2説あったのですが、

①九度山の人々が幸村をかばって浅野長晟を騙して幸村を逃がした
②監視役であった浅野長晟は、徳川に心から忠誠を誓っていなかったので(豊臣方への味方の思考があったので)その目を緩めていた

両方の説に頷けるのですが…
相乗効果で堂々と九度山を抜け出せたのではないでしょうかね?うーん、深い。もう少し調べてみたいと思います。
九度山を脱出できた幸村は集めておいた仲間と合流し、無事大阪城に入城。
それを聞きつけた家康は体を震わせて「篭城した真田は親か子か」と尋ねたところ、子(幸村)のほうであると解り、ようやく震えが収まったほどだという話はかなり有名なところだと思います。
昌幸に幾度か痛い目を見ているせいだろうか…子の印象がそこまでなかったのだなぁと思います。

幸村の最後の戦いとなったといわれるのは、冬夏ある中の大阪夏の陣になります。
家康の首めがけて一直線に猛攻を仕掛けていった真田隊は、家康の旗本を大いに混乱させ、馬印を倒すまでに至った。
家康は幾度も切腹をしようと試みたが側近にことごとく止められたという。

やがて数に負けた真田隊の攻撃力は落ち、総攻撃を受けた幸村はついに討死したという。

あの家康を、ここまで震え上がらせた彼は討ち取られた後、敵味方両方から「日本一の兵」と謳われたそうです。

そこなのですが、実は家康の下に届けられた「真田幸村の首」というのは幾つかあったそうで、どれが本物なのかわからない状態にあったそうです。
結局、”それらしい兜”の着いている首が真田幸村のものである、というようにされたのですが、真相は明らかではないとか。
なので”真田幸村は大阪夏の陣後も生きていた”という説もあります。
まぁどこで生き延びていたのかなどは不明ですし、信憑性も薄いのですが。あってもおかしくはない説だとかんじています。

さてさて、切腹せずに生き延びた家康なのですが、一説によると「健康に人一倍気を配っていた家康が、てんぷらのおいしさに魅せられ、食べ過ぎた(食中毒)で死んだ」というものがあります。ちょっとおかしな話ですよね。
さらにこういうものもあります。「大阪夏の陣にて、棺に隠れていた家康を真田隊が知らずのうちに討ち取り、生き残っていたのは影武者である」あまりにも間抜けな話だったので思わず笑ってしまいましたが…
その説が考えられるほど資料も少なかったものだと思います。

真田隊については面白そうなのでまだ調べ甲斐がありそうです。

あ、あとあくまでも自己満足の領域で書いているのでそのあたりをご了承いただければと思います。

それではまたの機会に

もっちょ
by wwwnekomimi | 2007-10-28 23:32 | 戦国知識